fc2ブログ

『夕陽妄語』を読むために 「宣長・ハイデッガ・ワルトハイム」

加藤周一
05 /12 2018
本日もご訪問いただきありがとうございます。

「宣長・ハイデッガ・ワルトハイム」  1988.3.22

・本居宣長(1730~1801):江戸中期の国学者。伊勢国松坂生まれ。医師として身をたてるため22歳のとき京に上り、堀景山の門に入り儒を学ぶ。景山のもとで契沖の著作に接する。33歳のとき、旅の途次松坂に泊まった賀茂真淵と会い入門する。主な著書『古事記伝』『玉勝間』『初山踏』

・賀茂真淵(1697~1769):江戸中期の国学者、歌人。30歳のころから京都伏見の荷田春満に従学し始める。契沖や春満の後を受けて、独自の国学を築いた。古代の古典をとくに尊んで、『万葉考』『祝詞考』以下多くの注釈を残す。

・荻生徂徠(1666~1728):江戸中期の儒学者。31歳から柳沢吉保に仕え、将軍綱吉にも接近する機会をもつようになった。柳沢家の臣として、『晋書』など中国の史書の校注・出版を行う。日本橋茅場町に住んだので、その書斎を蘐園と称し、門人たちは蘐園社中とよばれた。40歳の前後から、明の李攀竜、王世貞らが唱えた文学理論としての古文辞の影響を受け、中国古代の言語や文章の実証的研究を進めるとともに、この方法を経学すなわち儒学の古典の解釈学に適用して、古文辞学という新しい学風を樹立した。

・古文辞派:中国、明代の中期から末期に、詩文における擬古説を唱え、天下を風靡した一派。文は先秦・漢を、詩は漢・魏・盛唐を理想とする。『左伝』『史記』などの古文の法と辞と、李白、杜甫ら盛唐詩の格調とを重視した。

・両墓制:日本の墓制の一つ。土葬を基調とする墓制で、1人の死者のために遺骸を埋葬する墓(埋め墓)のほかに、供養のために詣る墓(詣り墓)を設ける。遺骸を埋葬した墓で供養を続ける単墓制に対して両墓制とよぶ。

・上田秋成(1734~1809):江戸中期の国学者、歌人、小説家。33、34歳のころ賀茂真淵の高弟加藤宇万伎に師事、宇万伎没後は独学で学問に務めた。50歳を過ぎたころ、本居宣長との間に、古代の音韻および日の神(天照大神)の解釈をめぐって論争があった。代表作『雨月物語』

・小林秀雄(1902~1983):評論家。一中のころ富永太郎、河上徹太郎と、大学時代に中原中也、大岡昇平と知り合う。1929年『改造』の懸賞評論『様々なる意匠』で文壇に登場。旧来の印象批評、実感批評を乗り越えて、自意識と存在の対決を軸とする近代批評を確立した。主な著書『無常といふ事』『考へるヒント』『本居宣長』

・ハイデッガ(Martin Heidegger 1889~1976):ドイツの実存哲学を代表する哲学者。1909年フライブルク大学に入学。フッサールが1916年にフライブルクの教授として来任、二人の間に親密な師弟関係が結ばれる。1923年マールブルク大学教授となり、1927年に主著『存在と時間』を公刊、1928年には定年で退いたフッサールの後を継いでフライブルク大学に戻った。1933年には推されてフライブルク大学総長となったが、このころナチスに入党、全体主義的色彩の濃い就任演説を行う。しかし1年足らずでナチスと衝突して総長を辞任。

・ゴットフリート・ベン(Gottfried Benn 1886~1956):ドイツの詩人。両世界大戦に軍医として従軍の時期を除き、ベルリンの下町で皮膚・性病科医院を開業。処女詩集『死体置場Morgue』(1912)で、これまでの詩ではタブーとされた醜悪な死体を冷酷非情に描き、表現主義の代表的詩人としてセンセーショナルに登場。学、技術の専門用語、外来語を多用し、意想外な観念連合によるショッキングな効果をねらう独自の詩境を開く。現代のニヒリズムに芸術形式の力を対置しようとし、その過程でナチズムに傾斜する時期があった。詩集『蒸溜(じょうりゅう)』(1953)、『終曲』(1955)などで、ことばの響きによる幻覚と魅惑を確固たる形式に組み込む「絶対詩」を目ざし、ゲオルゲ、リルケ以後の最大の詩人として世界的名声を得る。

・ワルトハイム(Kurt Waldheim 1918~2007):オーストリアの政治家。1971年第4代国連事務総長に選出された。1987年オーストリア大統領選挙に推されたが、選挙期間中、第二次世界大戦でドイツ国防軍将校としてユーゴスラビアのパルチザン弾圧に加わったと報道され、問題となる。1988年国際歴史家委員会が「ナチ犯罪に直接関わった証拠はないが、残虐行為について十分知りうる立場にあった」との報告をオーストリア政府に提出、本人も1991年6月、「次期大統領選に出馬せず」と政界引退を表明。

・サン・ジェルマンの平和会議:第1次世界大戦後のオーストリアと連合国の間でパリ郊外のサン・ジェルマン宮殿で開催された会議。サン・ジェルマン条約が調印され、旧オーストリアの戦争責任は新生オーストリア国家にのみ課せられ、南チロールのイタリアへの譲渡など周辺諸国への領土割譲、軍備制限、賠償支払いなどが規定され、ドイツとの合併が禁止された。ベルサイユ体制の一環として小国家を成立させたこの条約は新たな紛争の原因となった。

・オットー・バウア(Otto Bauer 1881~1938):オーストリア社会民主労働者党の政治家。オーストリア・マルクス主義の理論家、とくに民族問題の分析で知られた。1919年7月まで共和国外相としてドイツへのオーストリアの併合に努力したが,サン・ジェルマン条約によって併合は禁止された。

・シューシュニック(Kurt Alois Josef Johann Edler Schuschnigg 1897~1977):オーストリアの政治家。オーストリアのナチスドイツによる合併要求に対して首相を辞任。


参考書籍
日本大百科全書 小学館
世界大百科事典 平凡社

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

Radiology2003

本日もご訪問いただきありがとうございます。
日々の生活の中で感じたこと・調べたことを備忘録として残しています。