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「何故原爆を落としたか」 1989.8.23
・「トゥルーマン日記」(トゥルーマン(Harry S. Truman 1884〜1972)として記述):第33代アメリカ合衆国大統領。フランクリン・ルーズベルトの死を受けて1945年に副大統領から大統領に昇格。第二次世界大戦の終了から冷戦の始まり、国際連合の創設および朝鮮戦争などに関与。日本への原子爆弾投下について、投下書類(投下命令書)を承認したとされているが、トルーマンによる正式な承認は記録されていない。
・アイゼンハウァ(Dwight David Eisenhower 1890〜1969):第34代アメリカ合衆国大統領(1953〜1961)。第二次大戦時、1943年ヨーロッパ連合国軍総司令官に任命される。1944年6月ノルマンディー上陸作戦を指揮、フランスを解放しドイツの無条件降伏をもたらした。
・ノーマン・カズンズ(Norman Cousins 1915〜1990):アメリカ合衆国のジャーナリスト。広島市特別名誉市民。1934年『ニューヨーク・イブニング・ポスト』(現ニューヨーク・ポスト)紙に就職。1949年広島を訪れ、広島市への原子爆弾投下の惨状を視察。帰国後にルポルタージュ「4年後のヒロシマ」を発表する。日本基督教団の牧師、谷本清らとともに「精神養子運動」(原爆孤児たちの育成のため、米国人が彼らを精神的な養子とし、精神的な親が年額20ドルの養育費を送るというもの)を開始。400名以上の孤児に対する支援を実施する。
・『権力の病理』:The pathology of power ノーマン・カズンズの著書。日本語訳なし。
・ナチス・ドイツ:アドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)による支配下の、1933年から1945年までのドイツ国に対する呼称。ドイツ語では国家社会主義ドイツ労働者党を「Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei」と表記するが、頭の「Nationalsozialistische」が省略されてNaziとなった。
・「マンハッタン計画」:第二次世界大戦中、ドイツの核開発の可能性を恐れた亡命科学者らが、ルーズベルト大統領に原爆製造の急務を進言したのが発端で始まった、アメリカ合衆国の原子爆弾製造計画。科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマー。計画の名は、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていたことによる。
・ヤルタ会談:1945年2月4~11日,クリミア半島のヤルタで行われたアメリカの F.ルーズベルト大統領,イギリスの W.チャーチル首相,ソ連の I.スターリン首相の会議。クリミア会議とも呼ばれる。戦後のドイツ処理問題や東欧問題などの第2次世界大戦の戦後処理,国際連合の創設やソ連の対日参戦などについて話し合われ,10をこえる各種の協定 (秘密協定を含む) が結ばれた。
・スターリン:既出(「ペレストロイカ余聞」2018.5.7
http://selfdevelopment578.blog.fc2.com/blog-entry-386.html)
・スティムソン(Henry Lewis Stimson 1867〜1950):アメリカ合衆国の政治家。弁護士、連邦検事を経て、タフト政権の陸軍長官(1911~13)、フィリピン総督(1927~29)、フーバー政権の国務長官(1929~33)、F・D・ルーズベルトとトルーマン政権の陸軍長官(1940~45)を歴任。この間に1932年スティムソン主義を発表、太平洋戦争勃発前から対日強硬策を主張し、また原爆開発計画(マンハッタン計画)を統轄した。
・バーンズ(James Francis Byrnes 1882〜1972):アメリカ合衆国の政治家。州知事を経てフランクリン・ルーズベルト大統領により、第二次世界大戦中は連邦政府戦時動員局長に抜擢される。原爆開発を担当していたマンハッタン計画にも深く関わっていく。ハリー・トルーマン大統領のもと、1945年7月、国務長官となり、三人委員会の提言を独断で黙殺し、原子爆弾の使用を強く大統領に進言した。
・フォレスタル(James Vincent Forrestal 1892〜1949):アメリカ合衆国の政治家。1940年8月ルーズベルト政権の海軍次官に、1944年5月にはその海軍長官に就任し、アメリカの海軍力の強化に大きな役割を果たす。航空母艦を中心とした空母機動部隊構想の支持者として知られる。第二次世界大戦終結後は、トルーマン政権のもとで、陸海空三軍の統合と国防総省の創設を定めた国家安全保障法の成立に尽力し、その成立に伴って1947年7月から初代国防長官を務めた。アメリカ海軍の最初の超大型空母フォレスタル (USS Forrestal, CVA-59) は彼にちなんで命名された。
・シラード(Leo Szilard 1898〜1964):ハンガリー生まれのアメリカ合衆国の物理学者。1933年イギリスに亡命、このころ核の連鎖反応を着想した。1938年アメリカに渡り、ハーンらによる核分裂の発見を知り、原爆開発をアメリカ政府に促すアインシュタインの手紙を起草する。マンハッタン計画に加わり、フェルミとともに最初の原子炉をシカゴ大学に完成させた。原爆の日本への投下に反対し、戦後はパグウォッシュ会議の中心メンバーとなった。
・オティス・ケリー(Otis Cary 1921〜2006):アメリカ合衆国の情報将校、教育者。同志社大学名誉教授。1921年、北海道小樽市に生まれる。父は宣教師、同志社理事のフランク・ケーリ(1888 ~1973)、祖父は宣教師で同志社神学校教授、理事のオーテス・ケーリ(1851~ 1932)。14歳でアメリカに帰国、アマースト大学に学び、1941年にアメリカ海軍日本語学校に入学。ドナルド・キーンは同級生。海軍大尉となり、ハワイの日本人捕虜収容所長となる。
・ウラニウム爆弾:核分裂物質としてウラン235を使用する原子爆弾。ウラン235の原子核は、1個の中性子がぶつかると分裂し、この時2個から3個の中性子が飛び出す。 飛び出した中性子は、別のウラン235の原子核にぶつかり、同様に分裂し、エネルギーと中性子を放出する。この核分裂がごく短い時間に次々と広がると、瞬間的に非常に強大なエネルギーを生み出すことになる。 天然ウランに含まれるウラン235の割合はわずか0.7%で、残りは核分裂を起こしにくいウラン238である。原爆に用いるためにはウラン235の濃度を通常90%以上に高めなければならないが、ウラン濃縮には大変高度な技術力と大規模な設備、大量のエネルギーが必要とされる。放射能が少ないために取り扱いは容易である。広島に投下されたものはこの型。
・プルトニウム爆弾:核分裂物質としてプルトニウム239を使用する原子爆弾。プルトニウム239は自然界には殆ど存在しない重金属であるが、原子炉内でウラン238が中性子を吸収することで副産物として作られるため、ウラン235のような大量の電力を消費する濃縮過程を必要としない。プルトニウムは放射能が強いため取り扱いは難しく、生産に黒鉛炉または重水炉、再処理工場の建設費がかかるが、副産物として電力が得られ、1発あたり生産コストがトータルではウラン原爆より安価に済む。また臨界量が5kgとウラン235に比べてかなり少量で済む利点があり、量産に向くため、現在は五大国の核兵器生産はプルトニウムが主体である。原子炉で電力が得られるという利点もある。
参考書籍
日本大百科全書 小学館
世界大百科事典 平凡社
デジタル大辞泉 小学館
ブリタニカ国際大百科事典 ブリタニカ・ジャパン