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対訳『古事記伝』 19

本居宣長
07 /02 2020
91.凡て理のかなへりと思はるるを以て、物を信(ウク)るはひがことなり、

訳:すべて理にかなっていると思われるから、その物事を信じるのは誤りである。


92.そのかなへるもかなはぬも、實(マコト)には凡人(タダビト)の知べきにあらず、

訳:その理にかなっている、かなっていないという事自体凡人には判断できないのである。


93.其ノ説をなせる人も凡人、信る心も凡人にしあれば、いかでかはまことによきあしきは辨へ知む、

訳:その説を唱える人も凡人、信じる人も凡人であれば、どうして本当に正しいかどうか判断できるであろうか。


94.彼ノ國にいとことごとしくいはるる、聖人といふ人も、智はなほ限リありて、至らぬ處の多かるものを、ましてそれより智の後(オク)れたる人どもの」いひおきたる説どもは、いかでか信(ウケ)ひくに足む、

訳:中国でたいそうおおげさに扱われる、聖人といわれる人も、その智慧には限りがあって、至らないところが多いのであるから、ましてそれより智慧において劣っている人々が言い残した説などを、どうして信じるに足るものであろうか。


95.然るを世々の識者(モノシリビト)みな、さる臆度(オシアテ)の説にはかられて、是をえさとらず、此ノ潤色(カザリ)の漢文(カラコトバ)の處をしも、道の旨と心得居るこそ、いともいともあさましけれ、

訳:それなのにこれまでの世間の識者がみな、そうした憶測の説に騙されて、上記のことを悟らず、『日本書紀』の飾り立てた漢文の表現を、国史の肝と心得ているのは、極めて驚きあきれはてることである。




参考書籍
『本居宣長全集』第九巻 筑摩書房 1966年
『古事記注釈 第一巻』 西郷信綱 著 ちくま学芸文庫 2005年
『本居宣長『古事記伝』を読む』Ⅰ~Ⅳ 2010年
『新版古事記』 中村啓信 訳注 KADOKAWA 2014年
『改訂増補 古文解釈のため国文法入門』 松尾聰 著 2019年


参考サイト
雲の筏:http://kumoi1.web.fc2.com/CCP052.html


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対訳『古事記伝』 18

本居宣長
06 /19 2020
86.誰(タガ)云出し言ともなく、ただいと上ツ代より、語り傳へ來」つるままなり、

訳:誰が言い始めたということもなく、ただ非常に古い時代から、語り伝えてきたままなのである。


87.此ノ二つをくらべて見るに、漢籍の方は、理リ深く聞えて、信に然こそ有けめと思はれ、古傳の方は、物げなく淺淺(アサアサ)と聞ゆるからに、誰も彼レにのみ心引れて、舎人親王(トネノミコ)をはじめ、世々の識者(モノシリビト)、今に至るまで、惑はぬはなし、

訳:この二つを比べてみると、中国の史書の方は、理路整然としているように聞こえ、本当にそうであったであろうと思われ、日本の言い伝えの方は、そうだと納得できるほどでもなく浅薄な内容に聞こえるために、皆中国の史書にばかり惹きつけられ、舎人親王をはじめとして、世の中の識者と言われる人たちは、現在にいたるまで、それを信じて疑わない。


88.かく人皆の惑ひ溺るるゆゑは、凡てからぶみの説といふ物は、かしこき昔の人どもの、、萬ヅの事を深く考へ、其理を求めて、我も人も實(マコト)に然こそと、信(ウク)べきさまに造り定めて、かしこき筆もて、巧にいひおきつればなり、

訳:このようにみんなが中国の史書に惑わされ信じ込む理由は、およそ中国の史書の説は、賢い昔の人たちが、あらゆることを深く考え、理論的になることを追究し、自分も他人も本当にその通りだと、信じてしまうように造り定め、それらしい文章で、巧妙に表現していたからである。


89.然れども人の智(サトリ)は限リのありて、實の理は、得測識(エハカリシ)るものにあらざれば、天地の初(ハジメ)などを、如此(カク)あるべき理ぞとは、いかでかおしては知ルべきぞ、

訳:しかし、人間の知性には限界があり、本当の真実は、とうてい推し量ってわかるものではないので、この世の始まりなどを、こうであったはずであるなどと、どうして推測できるだろうか。


90.さる類ヒのおしはかり説(ゴト)は、近き事すら、甚(イタ)く違ふが多かる物を、理をもて見るには、天地の始メも終(ハテ)も、しられぬことなしと思ふは、いとおふけなく、人の智(サトリ)の限リ有リて、まことの理は、測(ハカリ)知リがたきことを、え悟らぬひが心得なり、

訳:こういった類の推測による説は、最近の事でさえ、大きく違うことが多いのだから、論理的に見ていけば、この世の始まりも終わりも、わからないことはないと思うのは、大変身の程知らずで、人知には限界があり、真理は計り知れないことをわかっていない間違った心得である。




参考書籍
『本居宣長全集』第九巻 筑摩書房 1966年
『古事記注釈 第一巻』 西郷信綱 著 ちくま学芸文庫 2005年
『本居宣長『古事記伝』を読む』Ⅰ~Ⅳ 2010年
『新版古事記』 中村啓信 訳注 KADOKAWA 2014年
『改訂増補 古文解釈のため国文法入門』 松尾聰 著 2019年


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対訳『古事記伝』 17

本居宣長
06 /07 2020
81.古へをよく考へ知れらむ人は、おのづから辯へつべし、

訳:いにしえの事をよく考え知っている人は、自然とわきまえているはずである。


82.そもそも天地の初發(ハジメ)のありさまは、誠に古傳説(イニシヘノツタヘゴト)の如くにぞ有けむを、いかなれば、うるさく言痛(コチタ)き異國(アダシクニ)のさかしら説(ゴト)を假(カ)り用ひて、先ヅ首(ハジメ)にしも擧げられたりけむ、

訳:そもそも天地の始まりの様子は、本当に古くからの言い伝えの通りであったはずなのに、どうしてわざとらしく大げさに他所の国の小賢しい説を借用して、巻頭に挙げたのだろうか。


83.【纂疏の本を見れば、故曰を一日とせり、もしこれ正しき本ならば、殊にいはれなし、其故は、異國の説を主として、御國の古傳をば、傍(カタハラ)になしたる記(シル)しざまなればなり、】

訳:【『日本書紀纂疏』を見ると、「故曰」を「一曰」としている。もしこれが正しいのであれば、余計にいいかげんなことになる。なぜならば、他所の国の説を主とし、我国の古い言い伝えを亜流と扱った書き方になるからである。】


84.凡て漢籍(カラブミ)の説は、此ノ天地のはじめのさまなども何も、みな凡人(タダビト)の己が心もて、如此(カク)有ルべき理ぞと、おしあてに思ヒ定めて、作れるものなり、

訳:おしなべて中国の書物の説は、天地の始まりの様子なども、みな凡人が自分の想像で、こうであったはずだという推測によって作ったものである。


85.此間(ココ)の古へノ傳へは然らず、

訳:日本にある古くからの言い伝えはそうではない。




参考書籍
『本居宣長全集』第九巻 筑摩書房 1966年
『古事記注釈 第一巻』 西郷信綱 著 ちくま学芸文庫 2005年
『本居宣長『古事記伝』を読む』Ⅰ~Ⅳ 2010年
『新版古事記』 中村啓信 訳注 KADOKAWA 2014年
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対訳『古事記伝』 16

本居宣長
05 /25 2020
76. 次に「故曰(カレイハク)開闢之時(アメツチノハジメノトキ)、洲壤浮漂(クニツチタダヨヒテ)、譬猶游魚之浮水上也(ウヲノミヅニウカベルガゴトクナリキ)云々」とある、

訳:次に「言い伝えによると、天地が初めて出来上がった時、国の土台となる大地は浮遊して、まるで魚が水の上に浮かんでいるような状態であった云々」と記述されている。


77.是ぞ實(マコト)の上ツ代の傳説(ツタヘゴト)には有ける、

訳:この部分こそ真に上代の言い伝えの内容である。


78.「故曰」とあるにて、それより上は、新たに加へられたる、潤色(カザリ)の文なること知られたり、

訳:「故曰(カレイハク)」とあることから、それより前の部分は、新たに加えられた、作為のある文であることが見てとれる。


79.若シ然らずは、此ノ二字は何の意ぞや、

訳:もしそうでなければ、この「故曰」の二字はどういう意味で書かれたというのだろうか。


80.初(ハジメ)の説は、其ノ趣すべてこざかしく、疑もなき漢意にして、さらにさらに皇国の上ツ代の意に非ず、

訳:この部分の前の言説は、その趣がすべて小賢しく、疑いもなく中国的趣向であって、我が国の上代のことを表すものではない。



参考書籍
『本居宣長全集』第九巻 筑摩書房 1966年
『古事記注釈 第一巻』 西郷信綱 著 ちくま学芸文庫 2005年
『本居宣長『古事記伝』を読む』Ⅰ~Ⅳ 2010年
『新版古事記』 中村啓信 訳注 KADOKAWA 2014年
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対訳『古事記伝』 15

本居宣長
05 /13 2020
71. ただ漢國に對(ムカ)へられたりと見えて、彼レに邊(ヘ)つらへる題號(ナ)なりかし、【後の史どもも、又是にならひて名づけられ、文德三代の實録にさへ、此ノ國號を添られたるは、いよよ心得ずなむ、】

訳:ただ中国に対する国名として使われたと思われ、中国のやり方に追従した書名なのである。【『日本書紀』以後の史書も、これに倣って名づけられ、文徳天皇およびそれに続く三代の天皇の史書にさえ『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』のように「日本」という国名を添えているのは、いよいよ納得できない。】


72. 然るを後ノ代の人の、返りて是をたけき事に稱(ホメ)思ふは、いかにぞや、

訳:然るに後の世の人が、かえって優れていることのように称賛するのは、なぜなのだろうか。


73.己(オノ)が心には、いとあかず、邊(ホトリ)ばみたる題號(ナ)とこそおもはるれ、【或人、此書は、漢國へも見せ給はむの意にて、名をもかくはつけられたるならむといへれども、決(キハメ)て然にはあらず、たとひ然るにても、外ツ國人に見せむことをしも、主として、名づけられむは、いよよわろしかし、】

訳:私には、とても不満足で、あさはかな名称に思われる。【或人、この史書は、中国にも見せようという意図で、この名をつけたのだろうと言うが、決してそうではない。もしそうであったとしたら、外国の人間に見せることを主たる目的として名前をつけるなどということは、ますます良くないことである。


74.さてその記さ」れたる體(サマ)は、もはら漢のに似たらむと、勤められたるままに、意も詞も、そなたざまのかざりのみ多くて、人の言語物(コトドヒモノ)の實(サネ)まで、上ツ代のに違へる事なむ多かりける、

訳:さて次に、その記述の仕方は、もっぱら中国の史書に似せようと努めた結果、意(こころ)も詞(ことば)も中国風の飾りばかりが多くて、人の言葉の実態まで、上代のものと違っていることが多いのである。


75.まづ神代ノ巻の首(ハジメ)に、古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子云々、然後神聖生其中焉といへる、是はみな漢籍(カラブミ)どもの文(コトバ)を、これかれ取リ集メて、書キ加ハへられたる、撰者の私説にして、決(キハメ)て古への傳説(ツタヘゴト)には非ず、

訳:まず神代巻の冒頭に「古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子……、然後神聖生其中焉」と書いてあるが、これはすべて中国の史書の文言を、あちこちからかき集め継ぎ接ぎした、撰者の私説であって、決して昔から言い伝えられてきた内容ではない。



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『本居宣長全集』第九巻 筑摩書房 1966年
『古事記注釈 第一巻』 西郷信綱 著 ちくま学芸文庫 2005年
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