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『百人一首一夕話』私訳 在原業平朝臣①

百人一首
09 /13 2023
阿保親王第五子で、行平卿の弟であるが異母弟である。母は桓武天皇の皇女伊都内親王である。貞観の時代に左近衛中将、元慶の時代に兼相模美濃権守を務めた。世間で在五中将と呼んでいるのは、在原氏で第五子の中将であったからである。

 千早ふる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは

 『古今集』秋下で「二条の后が春宮(とうぐう)の御息所であった時、屏風に竜田川に紅葉が流れている情景が描いてあるのを題として詠んだ歌」とある。この出来事は二条の后が清和天皇がまだ即位されず東宮でいらっしゃったときにその御子をお産みになったことから、春宮の御妃と呼ばれていたということで、女御として皇子をお産みになれば「御息所」と呼んでいたのである。「千早ふる」は神の枕詞である。歌の意味は「神代の時代には様々な奇異現象があったと聞くが、今この竜田川の絵を見ると一面に赤い中に青い水が括り染めのように見える。このような奇異現象は神代にもあったとは聞かない」ということである。「からくれなゐ」とは赤色を称賛して言う表現である。昔は朝鮮半島から伝来する物を愛でて、「から藍」「から錦」「から櫛笥」などとも言った。


参考書籍
『百人一首一夕話 上・下』 尾崎雅嘉著 岩波文庫 1972年
『岩波古語辞典』 岩波書店 1974年
『改訂増補 古文解釈のため国文法入門』 松尾聰 著 2019年


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『百人一首一夕話』私訳  中納言行平③

百人一首
08 /29 2023
 これらの功績によって行平はさらに昇進し、元慶六年に中納言に任ぜられたが、寛平五年七十六歳で亡くなられた。俗説に行平が須磨の浦へ流されになったことが言い伝えられているが、正史にはそういったことは見られないので疑わしいものではあるが、『古今集』雑下に「田村の御時に事件に関わって摂津の国須磨というところに蟄居されていたところ、宮中にいる人に贈った歌」と題されて、
 わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつう侘ぶと答へよ
 (もしもまれに私の消息を問う人がいたら、須磨の浦で塩をとるために海藻にかけた海の水のように涙を流しながら嘆いている、と返答してください)
という歌がある。田村とは文徳天皇のことである。行平は経済的な才能がありかつそのほかの能力にも優れていた人であったため、事務的な仕事でちょっとした支障が生じ、公的なお咎めはなかったけれども、自ら須磨へ蟄居されたことがあったのではないだろうか。しばらくの間のことで罪とすべきほどのことではなかったため、正史には載せられなかったと思われる。このことに関して、俗説に松風・村雨という二人の漁夫と交流をもたれたことを言うのは、西行の『撰集抄』に「昔行平の中納言という人が、身にあやまることあって、須磨の浦に流され藻塩を携えて浦を歩いていたところ、絵島の浦で仕事をしている漁夫の娘のひとりが気になり、どこに住んでいる人かを手紙を出してお尋ねになると、この娘はとりあえず
 白波のよするなぎさに世を過ごす蜑の子なれば宿も定めず
と詠んで行ってしまった」という説話がある。これらの言い伝えを混同したものであろう。 


参考書籍
『百人一首一夕話 上・下』 尾崎雅嘉著 岩波文庫 1972年
『岩波古語辞典』 岩波書店 1974年
『改訂増補 古文解釈のため国文法入門』 松尾聰 著 2019年


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『百人一首一夕話』私訳  中納言行平②

百人一首
08 /15 2023
   中納言行平の話

 嵯峨天皇の弘仁の頃新羅国の者どもが肥前国に攻め入り、中国が我が国に献上するための船を奪い、船中の絹綿などを強奪していたので、或る時は兵隊を派遣して討ち取り、或る時は新羅人を捕えて近江・駿河などに配流させてはいたが、時には穀物を盗んで船に積み入れて海上に逃げ去ることなどが度々発生していた。それに対し、経済的な才能のあった在原行平が太宰権帥に任ぜられて西国の行政を執り行うようになった。それまでは筑前・肥前など六ヵ国の穀物を船で搬送して対馬国の食料をするのが慣例であったのだが、海運技術が不備で十隻中六七隻は漂流ないし沈没したり、船員が溺れ死ぬなどして、無事に対馬に到着できることが少なかったことから、行平は天皇に奏上して、先の六ヵ国の搬送予定の米を留め、その代わりに筑前の人民に壹岐国で水田を営ませ、それを対馬の食料に充て、壹岐国から都へ貢納する米を留め、その代わりに六ヵ国に留めていた米を都に貢納することを認めてもらうことによって、対馬への運送費を削減しただけでなく、難船・溺死を回避できるようになったため、それを喜ばない者はなかった。また肥前松浦郡庇羅・値嘉の二郷には昔から奇石や香薬が産していたが、中国人が我が国に来た際この奇石・香薬を採り帰る者が多くいた。もともとこの二郷は面積が広く、民も裕福であったため、その地の珍しい多くの産物をその国の郡司に任せっきりで彼らが私利私欲のまま自分のものにしていたことに気づかず、国司の検分も十分になされていない状況であった。その上にこの地は海中にあったために、中国人が我が国にやってくるときは、まずこの島に立ち寄り無断で香薬を採取して船に積み込んでいたために、この島の人々はその産物を見ることすらなかった。また浜辺に産する奇石は、精錬して銀を採取したり磨いて宝石にしていたが、ほとんどは中国人が奪い取っていたことを島民が訴えたことから、行平はこの二郷を一つの郡領として正式な税を定め、他国の者をみだりには入れず、それ以後はその産物を国のものとするよう上申なさったところ、ただちにそれが許可された。



参考書籍
『百人一首一夕話 上・下』 尾崎雅嘉著 岩波文庫 1972年
『岩波古語辞典』 岩波書店 1974年
『改訂増補 古文解釈のため国文法入門』 松尾聰 著 2019年


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『百人一首一夕話』私訳  中納言行平①

百人一首
08 /01 2023
父は弾正尹(だんじやうのゐん)、四品阿保(しほんあぼ)親王で、実母の詳細は不明である。弘仁九年誕生し、伊都内親王の御子となさった。天長三年在原の姓を賜り、承和二年蔵人頭に任ぜられ、斉衡二年従四位に叙せられて因幡守に任ぜられる。後に昇進して元慶六年中納言に任ぜられる。

  立ち別れ因幡の山の峰に生ふるまととし聞かば今帰りこむ

 古今集離別部に題知らずとある。これは斉衡二年の正月に行平が因幡守になられ、任地へ向かおうと都を出発される時、残った人に対して詠まれた歌である。歌の意味は「都を発ちあなたと別れて向かう因幡の国の、その山の峰に生えている松の木のその名のようにあなたが私を待っていると聞いたなら、すぐにでも都に帰ってきましょう」というものである。「立ち別れいなば」という言葉に、「別れて行く」という意味も重ねている。古い表現には、「ゆく」を「いく」と書いているものが多い。



参考書籍
『百人一首一夕話 上・下』 尾崎雅嘉著 岩波文庫 1972年
『岩波古語辞典』 岩波書店 1974年
『改訂増補 古文解釈のため国文法入門』 松尾聰 著 2019年


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『百人一首一夕話』私訳  光孝天皇④

百人一首
07 /17 2023
 この帝ははじめ小松殿にお住まいの時、仲野親王の娘班子(はんし)という者をお娶りになり、是忠・是貞・定省(さだみ)・忠子・為子などの皇子皇女をおもうけになったが、即位の後妻の班子に従三位をお授けになり女御とお呼びになり、その後皇后とされた。このほかにも女御・女官などがお産みになった子息は多数おられ、男女合わせて三十六人いらっしゃったが、政治のすべては基経公がお取り計らいになり、君主と臣下の関係は睦まじいものであった。またこの帝が親王でおられたとき小松宮に侘しく月日をお過ごしになっていた際、町人の物を多く借用していらっしゃったので、お即位の後町人たちが参内して責め申し上げると、倉庫にある物品をお返しになったと記録がある。



参考書籍
『百人一首一夕話 上・下』 尾崎雅嘉著 岩波文庫 1972年
『岩波古語辞典』 岩波書店 1974年
『改訂増補 古文解釈のため国文法入門』 松尾聰 著 2019年


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