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『百人一首一夕話』私訳  河原左大臣 ①

百人一首
03 /28 2023
名は源融(とほる)、嵯峨天皇第十二皇子で、母は正四位下大原金子という。仁明天皇の皇子となって、承和五年皇太子がご元服の日に融もともに禁中でご元服になり、正四位下に叙せられる。それ以降昇進して貞観のはじめに正二位、同十四年左大臣に任ぜられる。六条の河原院にお住まいだったので、河原左大臣と名乗られる。
 
  陸奥の忍ぶもぢ摺り誰故に乱れ初めにし我れならなくに

 古今集恋四に題知らずとあって、第四句は「乱れんと思ふ」となっている。歌の意味は「欧州の信夫郡で生産されるもぢ摺りというものは、髪を振り乱したようにとりとめもなく模様を摺り付けた布地であるが、この私も誰のためにもぢ摺りの模様のように心が乱れ始めたのだろうか、私のせいではなくあなたのせいなのですよ」というものである。「もぢ摺り」は「摺り衣」のことで、昔は藍・忍ぶ草・萩・月草などを布に摺り付けて模様をつけていたのである。後世になると物の形を板に彫って、それに色を塗ってその上に布を摺り付けるようになった。



参考書籍
『百人一首一夕話 上・下』 尾崎雅嘉著 岩波文庫 1972年
『岩波古語辞典』 岩波書店 1974年
『改訂増補 古文解釈のため国文法入門』 松尾聰 著 2019年


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『百人一首一夕話』私訳  陽成院 ④

百人一首
03 /13 2023
 かくしてその日になったので、基経公の計略として上達部や殿上人の中で有能な人たちを選別してその人たちは都に残し、年老いて生い先短い人々を供奉として天皇を御輿にお載せして、陽成院という御殿にご案内し、そこに御輿を降ろさせて基経公が威儀を正して「あなた様は天下を治める君子としておられますが、ご病気とは言えみだりに罪もない人を殺しになるために、人民は嘆き悲しみこの世も終わってしまうのではと危惧しております故、やむを得ず天皇の位から降ろさせていただきます」と申し上げるのを天皇がお聞きになると、何と悲しいことかとおんおんとお泣きになりそれがお気の毒ではあるけれども、基経公はそのように申し上げると退出し多くの役人を引き連れ、御輿を準備して小松殿は向かい時康親王をお迎えし、直ちに儀式を執り行い天皇の位におつけ申し上げになった。これを光孝天皇と申し上げる。一方先帝はそのまま陽成院にお籠りになることとし、太上天皇の尊号をおつけすることとなったところ、精神の乱れも徐々に収まってきつつあったが、その6年後寛平元年十月ご病気が再発し、或る時は琴に張る弦で宮仕えの女性を縛って水中に沈めたり、或る時は馬を走らせて役人の家に押し入り人をお殺めになったので、都中の人々は恐れおののくこと尋常ではなかったが、程なく落ち着きになり、その後陽成院から二条院にお移りになり、村上天皇の天暦三年八十一歳でご崩御になった。



参考書籍
『百人一首一夕話 上・下』 尾崎雅嘉著 岩波文庫 1972年
『岩波古語辞典』 岩波書店 1974年
『改訂増補 古文解釈のため国文法入門』 松尾聰 著 2019年


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『百人一首一夕話』私訳  陽成院 ③

百人一首
02 /27 2023
 親王たちは早い段階からこの流れにお気づきになり、基経公によく見られようとそれぞれ表面上繕い素晴らしい人物に見えようとされるけれども、基経公の目にはこれもだめあれもよくはお見えにならないと映っていたところ、仁明天皇の御子息で五十余歳におなりになる時康親王が、今式部卿上野大守の地位でひっそりとお過ごしになっている小松宮に参上して何気なくその姿を拝見したところ、敗れた御簾の内側で縁が擦り減った畳にいらっしゃり、髪も二股に分けたままで平服もお召しにならず、穏やかなお顔で基経公と対面され、「どうしてお立ち寄りになったのですか」とだけおっしゃるご様子がたいそう気高くていらっしゃるので、この方が天皇におなりになれば立派にお勤めになるだろうと考え、基経公は陽成天皇の現行の悪行を包み隠さず申し上げられ、天皇に即位されるべき旨をお勧めになると、小松宮は再三にわたってお断りになったけれども基経公が言葉を尽くしてお勧めになり、かつ事は急を要する旨も申し上げられると、それはどれ程先の事なのかお尋ねになり、基経公は時がたてばそれだけ事態は悪化するので明後日が日も良いので、その日とお考え下さいと申し上げ急いで小松殿を退出し、そのまま禁中に向かわれると、帝は今日もまた木の上に人を登らせて打ち殺すのを楽しまれ、笑っておられるのを見て情けないことだと思いながら、何気ない風を装って「最近帝はご退屈に思っておられると存じまして、競馬を催しますので、行幸なさってご覧になられてはいかがでしょう」と申し上げると、帝はもともと馬がお好きであるので、たいそうお喜びになり、それはいつのことかとお尋ねになったので、基経公が明後日を予定していると申し上げると、帝はお喜びになってその日をお待ちになった。


参考書籍
『百人一首一夕話 上・下』 尾崎雅嘉著 岩波文庫 1972年
『岩波古語辞典』 岩波書店 1974年
『改訂増補 古文解釈のため国文法入門』 松尾聰 著 2019年


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『百人一首一夕話』私訳  陽成院 ②

百人一首
02 /13 2023
陽成院の話
 清和天皇の貞観十八年大極殿が炎上して、小安殿・蒼竜楼・白虎楼・延休堂および北門、北東西の廊百余間類焼し、その火は数日たってようやく消えたが、さらにその年天下で飢饉が発生し百姓は苦しんだために、天皇は帝位を辞して皇太子貞明にお譲りになった。この時皇太子は御年わずかに八歳だったため、母君の兄である右大臣藤原基経が幼い天皇を補佐して天下の政を執り行われ、清和上皇を尊重して太上天皇とお名乗りになった。その後元慶四年十二月清和上皇がご崩御になり、同六年陽成天皇が元服なさった。この帝は貞観十年十二月染殿院にてお生まれになり、元慶元年正月二日豊楽院にてご即位された。この時十歳でいらっしゃった。この帝はご即位の後、特に馬をお愛しになり宮中の人が来ないところで内密に馬をお飼わせになり、小野清和は馬の飼育をきちんと行ったことにより寵愛を受け、紀正直は馬術に優れていたため帝と懇意になったのであるが、清和の行いが決まりをわきまえず朝廷の儀式がたいそう乱れることになったため、それを聞いた関白基経公は、突然宮中に入って清和・正直らを追い払われた。その後帝はご病気になり心もお病みになり、生きた動物を多数集めさせ、蛇に蛙を呑ませたり猫に鼠を捕らせたり、犬と猿とを戦わせて殺させになっただけでなく、挙句の果てには人を木に登らせ打ち殺させになり、少しでもご自身の考えに従わないものがいれば剣を抜いて追い走らせになるなど、その行いが悉く天皇としてそぐわないものであったため、基経公が度々お諫め申し上げたけれども改めになることがなかったため、基経公はお嘆きになり、こうなっては帝の位を退いていただくほかはないとお考えになり、親王たちや帝に近いご一族の中で、帝位をお継ぎになるのにふさわしいお人柄の人物をお探しになった。


参考書籍
『百人一首一夕話 上・下』 尾崎雅嘉著 岩波文庫 1972年
『岩波古語辞典』 岩波書店 1974年
『改訂増補 古文解釈のため国文法入門』 松尾聰 著 2019年


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『百人一首一夕話』私訳  陽成院 ①

百人一首
01 /30 2023
御諱を貞明(さだあきら)、清和天皇の第一皇子、母君は贈太政大臣長良(ながよし)公の娘で、皇太后宮高子(たかいこ)。つまり二条后のことで、藤原基経公の妹であった。

  筑波嶺の峰より落つる男女川恋ぞ積りて淵となりぬる

 『後撰集』恋三に「釣殿のみこに遣しけると」とある。釣殿院というのは光孝天皇の御殿の名前である。娘の綏子(すゐし)内親王にこの釣殿を譲ってお住まわせになったことから、この内親王を釣殿のみこと申し上げた。御歌の意味は「筑波嶺も男女川も常陸の国の名所であるが、筑波山の嶺のその峰から流れ落ちる水が麓の男女川という川になるように、はじめは知らず知らずに思い始めた私の恋も、積もり積もって今となってはあの男女川の淵のように深くなってしまった」というものである。男女川の「み」の字は、「水」の字掛けてお詠みになっている。この釣殿という御殿は池や川などの水上に張り出すかたちで建造した建物である。そこに座ったまま魚が釣れるようにして、勾欄の内側は板敷にしたものである。



参考書籍
『百人一首一夕話 上・下』 尾崎雅嘉著 岩波文庫 1972年
『岩波古語辞典』 岩波書店 1974年
『改訂増補 古文解釈のため国文法入門』 松尾聰 著 2019年


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